「すき、だからすき」

 4人の漫画家からなるユニットCLAMPさんの作品。最近の漫画のなかで読むまえにタイトルに無条件にひかれてしまった1冊。友情や恋愛には必ず始まりがあり、きっかけがありますが、そのきっかけ、理由を聞かれたらどのように答えるのでしょうか。わたしなら即答はできないで、きっと迷うと思います。「すき、だからすき」これ以上ストレートな表現はないし、これよりも自分の気持ちにすなおになれるいいかたはありません。もし言われたら、何か答えるより先に泣いてしまうと思います。すなおな表現だから、言われたわたしもすなおな気持ちでいられるし、「すき、だからすき」という考えはなんてすがすがしいのかと感じてしまう。友情にせよ、恋愛にせよ、そして毎日の生活に至るまで自分の気持ちにすなおになるのは、ほんとうに大事なこと。これは恋愛を扱った作品ですが、このすなおなひとことにこめられた気持ちが大切になるのは恋愛だけではないはず。自分の気持ちを大事にしたい。自分に対してもこのひとこと「すき、だからすき」といいたいとこころから思います。

つきあいの長さと深さ

 田中芳樹さんの「アルスラーン戦記」を読み返しています。アルフリードがエラムにいうひとことにひかれました。わたしたちは礼儀を重んじて大事にする民族といわれますが、知り合ってから友情がうまれ、深くなるまで関係をじっくりと時間をかけて育てる場合が多いように思います。しかし、そうでないこともあるのだと知ったひとこと。お互いの共通点が多い、性格が似ている、趣味や興味が同じである、年齢がお互いに近い、など友情を育む要因はいろいろあるのでしょうが、最後には相手に対する尊敬の気持ちとか、思いやりとか愛情がいちばん大事な条件になるのではないか、という気がします。「つきあいの長さと深さは、べつのものよ」という彼女アルフリード。つきあいの長さだけが友情を深くする理由ではないのです。自分は友人の身になって考えることができるか、礼をつくしているか、相手に対するやさしさや愛情を忘れていないか、ということを考えるのが友情を育て長続きさせる初めの一歩になると思いますが、どうでしょうか。

高田先生の教え

 このところ疲れた感じはなかったのですが、今日はどうしても身体が動かなくなって5時間も昼寝をしてしまいました。ひととひととのつながりとか、やさしさとか、愛情とか、あるいは毎日のなかで起こる問題とか、考えることが多かったのかな、と思います。社会生活をしている以上はうまくいくことばかりではないし、もしかしたら問題をかかえて悩んだり迷ったりするほうが多いのでしょうけれど、さとりがなければ迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷う気持ちがなくなることもないのだそうです。薬師寺管長であられた高田好胤先生のお話ですが、「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、ひろく、ひろく、もっとひろく」というこころがまえで生活することが大事で、これが般若心経の精神に通じるのだ、ということです。考えてみるとわたしたちは自分でも知らないうちにいろいろなものやさまざまなことにとらわれたりこだわったり、あるいはかたよったみかた、考え方をしていることがあるようです。おだやかで、やさしい気持ちで生きるにはどうすればいいのでしょうか。慌ただしい、せわしない、ややもすると自分をも見失いがちな毎日だからこそ振り返る姿勢が大事になるのではないか、と思います。

存在は意識しない、でもなくしたら困るもの

 このところ電話回線をとおしてできたつながりについて考えることが多くありました。同じコミュニティに属したり、趣味が同じだったりいろいろなつながりができました。たまたま共通点があったことが理由になってつながりや関連がうまれ、知人、友人になることがあります。友人とはなにか、と聞かれたらわたしならどのように答えるのでしょうか。性格がなせる業で友人はほんとうに少ないですが、もし、聞かれたら「普段、存在は意識しないけれど、なくしたらとても困るし、とても悲しいもの」と言うと思います。「友は喜びを二倍にし、かなしみを半ばにする」といわれますが、だからこそ相手の友人の立場になった配慮とか思いやりが大事になるのですね。なくさないで、大切にして、育てるにはどうすればいいか、ひとりで考えることは必要でしょうが、二人で話せばもっとわかるはず。これからもこの「意識しないけれどなくなったら困る大事なもの」のためにも、いつまでもやさしいひとでいたいと思っています。

主よひとの望みの喜びを

 辛いとき、悲しいときいつも支えてくれた音楽があります。いままでに聴いてきた音楽の曲数ははおそらく5桁をゆうに超えるのでしょうし、すきなクラシックやバロック音楽だけにとどまりませんが、ほんとうに苦しいとき、悲しくてたまらないとき、支えてくれた音楽は多くはないと思います。初めて聴いたのがいつかわからないくらい前で、忘れてしまいましたが、悲しいとき、辛いときに心から慰め、励ましてくれた数少ない音楽、そのひとつがバッハの「主よひとの望みの喜びを」です。今日、とても悲しいことがありました。いま、聴きながら書いていますがとてもやさしく聴こえます。わずか33歳で世を去ったリパッティの演奏だからでしょうか。大好きな演奏者でもありますが、おだやかでやさしい、いままでにも数え切れないほど聴いてきた演奏が今夜はひときわ胸に沁みます。どうか、やさしいわが友に幸あれ。幸くませ、幸くませ、愛するわが友。

もうひとつの部屋

 自分の部屋をもち、PCや携帯をもつことは束縛された自分解放の手段である、というお考えを読んで考えたのですが、もしかしたらPCや携帯はもうひとつの部屋なのかもしれない、と思います。パスワードがなければ自分も入れないし、自分の他にはアドレスやURLを伝えたひとだけが入れる。社会生活を送る以上はどうしても家族も含めた他人の目があるわけですが、その目を気にしないで自由になれる場所が現実の世界にあるか、となると残念ながらない、と言ってしまうほうが早いようにも思います。束縛があるから自由が大事だと思いますが、わたし自身はPCに向かうと落ち着くし、気持ちがやさしくなります。電話回線のむこうにいるひとのことを考えてしまうからかもしれませんが、これからもこのPC,携帯というかぎられたひとしか入れない、自分もすなおになれる場所を大事にしたいです。PC,携帯はだれにも知られない内緒の部屋になれるのかもしれません。

 初夏のつれづれ、よしなしごと。
 
 現実の部屋にはフォーレの「夢のあとに」が静かに流れています。

邂逅は歓喜、幸せ

 亀井勝一郎の「現代人生論」のなかに「もし、あのとき、このひと(またはこの書物)に出会っていなかったら、いまごろ自分はどうなっていただろうかと考えることがある。そこに生じるのは謝念である。邂逅の歓喜あるところに人生の幸福がある」という一節があります。とてもすきなことばです。出会いはこれまでにも沢山ありましたけれど、でも、そのうちのどれくらいが忘れ得ない出会いになるのでしょうか。もし、それがあるのならこの日記を立ち上げるきっかけになったかたとの邂逅は絶対に忘れてはならない、と思うのです。お互いの気持ちは無機質な(はずの)メールの文字を通して確かに伝わるのだ、という当然かもしれない事実も改めてわかりました。また、理解するようになるまでの時間は問題ではないことがわかったのは驚きでした。はじめてのごあいさつがあったのが今月6日で、まだ5日しかたっていないのに、これまでのBBSへの書き込みだけで軽く3桁近くまで届くのではないでしょうか。あまりにも共通点が多いのにも驚きましたが、短い時間のあいだにここまでこられたのは思いやりとやさしさがなせる業だったのだ、と信じたいです。出会いが奇跡なら、邂逅は歓喜、幸せ。
 やさしい友に心から感謝します。幸くませ、わが友。

テヘランの日の丸(続き)

 昨日の「テヘランの日の丸」の写真を友人のイラン人Masoume Ramezaniさんに見せました(ご主人は日本人ですがFARSIがわかります)。ほんとうに喜んでくれて紹介したわたしもとてもうれしくなったのですが、もし、イランが勝ったら「嬉しい」と思う日本人はどれくらいいるのでしょうか。お互いの国の人たちが相手国に寄せる思いはあまりにも温度差がありすぎるのではないか、と思います。そもそも友情とか、愛情とか、やさしさといった感情、わたしたちがもってうまれた感情は国境とか民族とかの条件を越えて同じはずなのに。日本人はまだまだ精神的にはイランに追いついていないのかもしれない。ほんとうに考えてしまいます。日本人はイランのことをどれくらい正しく知っているのでしょうか。偏見だけではあまりにやりきれない気がしてなりません。国際理解の方法は多いと思いますが、まず、温度差をなくすことが大事ではないでしょうか。草の根から始まる親善もあるはず。この写真にこめられた意味を真摯に考えたいと思います。

テヘランの日の丸

 1枚の写真を見て、ほんとうに胸が熱くなる、という経験は少ないと思います。そのまれな例がこの写真ではないか、と考えさせられました。以下、MIXIつながりRyotaさんの記事。

 テヘランの日の丸
http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=photo&d=20050609&a=20050609-02511280-jijp-spo.view-001
とても感動した写真です。
イランの人たちが、日本の国旗を掲げて祝福してくれた! 彼らはこんなに素晴らしい心をもった人々です。どうか日本の人たちには、反日の近隣諸国にばかり目を向けずに、これだけ日本に好意をもってくれている人たちがいることを知ってほしい。

 

 国際理解、相互理解とは何なのでしょうか。日本ではとても残念なことにイランに対する誤った偏見があります。アメリカ主導の外交のなせる業なのでしょうが、もっと正しい見方をするべきではないでしょうか。テヘランの日の丸、両国の友好の証だと思います。わが国とイランは奈良時代からの友好国、ササン朝ペルシャがなかったら日本のいまの文化はなかったのかもしれません。間違った認識と国際親善、難しい問題ではありますが真摯に考えたいと思います。写真を送ってくれたRyotaくん、そしてleeさんに、イランのひとたちに、感謝。

MIXI紹介文

 わたしの紹介文を書いて下さったかたがいます、とMIXI本部から連絡がありました。まさか、と思いましたがほんとうでした。もしや彼女では、と考えましたがその通りでした。すぐに彼女の紹介文を作ってMIXIに返送しましたが、うれしいのと同時に何かとても気持ちがやさしくなる気がします。なぜなのかはわからないけれど、おそらくイラン・ペルシャ語という共通点の他に、ことばや文字では伝えられない同じ気持ちがあったからではないかと思います。これまでずっとPCを使ってきていますが、初めてご挨拶をしてからまだ10日にもならない短期間でこれほどの信頼関係(そう信じます)ができたのは彼女が初めてです。文字は気持ちを伝えるし、相手のかたへの気持ちはそのまま自分に戻ってくるのですね。わたしの紹介文を書こう、と思うまで、もしかしたら悩んだり迷ったりしたかもしれませんがありがとうの気持ちをぜひ伝えたいです。leeさまありがとう。これからもよろしくね。
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